西福寺について

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西福寺について

寺名 念仏山浄雲院 西福寺
創建 行基菩薩の創建とも伝えられるが不明
開山 永禄三年(一五六〇)に法誉道春により浄土宗寺院として再建
宗派 浄土宗
宗祖 法然上人
宗旨 阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ、「南無阿弥陀仏」とみ名を称えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るい安らかな毎日を送り、お浄土に生まれることを願う信仰です。⇒「私たちの宗旨」(浄土宗HP)

住職よりご挨拶

 当山西福寺は、およそ500年ほど前、この上狛の地で念仏弘通の一拠点となるべく建立(再建)されました。開山上人である法誉道春から数えて、平成27年に住職を拝命した私、浄誉明央は二十九代目となります(晋山式は平成30年)。この間の長い歴史の中で、歴代住職は、人々の心の置き所(安心)、地域住民の連帯(結縁)の場、何より念仏実践の道場としての西福寺で日々「南無阿弥陀仏」のお念仏の火を灯し続けて参りました。この法灯を私も絶やさぬよう私も寺を護持し、お念仏を弘通していく思いでおります。それでは当山西福寺についてご案内いたします。

西福寺の所在

 京都や奈良にはたくさんの有名な寺院があります。昔から貴族や時の為政者を後援にして立派な伽藍や庭園を有する寺院、歴史の中心舞台として日本文化、仏教文化を代表する寺院は、今も多くの観光客で賑わっています。対照的に当山西福寺はというと、古くから京都と奈良のふたつの「中央」に挟まれた土地に位置し、昔も今もいずれの「中央」からもちょっとかけ離れた「周縁」の田舎寺です。そんな西福寺の歴史を紹介します。

中世以来の上狛環濠集落の中心に建つお寺

 当山西福寺の所在は、京都府木津川市上狛(JR奈良線、上狛駅から徒歩五分)、通称「大里おおざと」と呼ばれる周囲を堀に囲まれた集落の真ん中にあります。「大里」とも「狛郷こまのさと」とも「狛野荘こまのしょう」とも呼ばれるこの上狛かみこまという在所は、長径六百メートル、短径三百メートルのほぼレモン形をした中世以来の環濠集落かんごうしゅうらくで、かの山城国一揆の一舞台です。

上狛環濠集落

狛氏ゆかりの寺

 「上狛」という名称は、かつてこの地に住まった渡来系の狛氏(高麗氏の裔とする説もあり)に由来し、近くには日本最古の寺と目される高麗寺跡があります。山城国一揆を主導した国人・狛山城守秀(こまやましろのかみひで)はその狛一族の末裔でした。西福寺は狛一族の菩提寺として再興されました。

西福寺の沿革

 当山西福寺の創建については実際のところよくは分かっていませんが、江戸期の資料など(浄土宗の寺院史『増上寺史料』、『蓮門精舎旧誌』)には奈良時代、行基菩薩(六六八-七四九年)の創建とあります。近隣には行基が畿内に自ら創建した四十九院の一つ(天平十二年/七四〇年)泉橋寺があります。西福寺の本尊阿弥陀如来立像不動明王立像は十二世紀の制作、聖観音立像は十一世紀の製作と推定されており、このことから当山の創建は少なくとも平安後期を下限とするではと思われます(嵯峨美術短期大学名誉教授、故中野玄三氏の見立てによる)。

聖観音立像(十一世紀)
阿弥陀如来立像(十二世紀)
不動明王立像(十二世紀)

 現在「浄土宗寺院」としてある西福寺は永禄三年(一五六〇年)浄土宗僧・法誉道春ほうよどうしゅんによって再興されてからです。鎌倉期に誕生した浄土宗や禅宗といった新仏教は、いずれも室町期に花開き、「武者むさの世」、「応仁の乱」、「下克上の時代」、「戦国時代」と続く時代の変革、戦乱の世の中、常に死と隣り合わせで生きなければならなかった武士や民衆に後世の安心と今世での覚悟を与え、新しい時代を作った人々の心の支えとなりました。
 西福寺には中世の貴重な史料として「天文十四年」(一五四五年)の地蔵菩薩立像、山城の国人の肖像画狛秀綱像(十六世紀、紙本著色、京都府登録文化財)などがあり、境内には狛氏の墓所群もあります。

地蔵菩薩立像(一五四五年)
狛秀綱像(十六世紀)
狛秀綱墓石

西福寺の再建と狛秀綱

浄土宗僧としての開山上人道春の没年は位牌の記銘から天正元年(一五七三年)と分かっております。開山年から没後までの住職在位期間は、室町期の国人で山城国一揆を率いた狛守秀こまのかみひでの子孫、狛氏八代目当主・狛佐馬進秀綱こまさうましんひでつな/一五四五−一五八四年)の生きた時期と重なっています(すなわち、道春の在位は秀綱が十五歳から二十八歳の時期に当たります)ので、道春の西福寺再興には秀綱が大いに関与したであろうことが推察されます。秀綱は新しい時代の幕開けを牽引した織田信長の家臣として狛野荘三百十一石の領有を認められ、戦国の世でともに戦い、本能寺の変(一五八二年)で信長が亡くなった二年後、三十九歳の若さでなくなっています。
 西福寺に遺されている狛秀綱の肖像画は死後間もなくに描かれたと考えられており、その肖像画には「天正十二年(1584年)四月九日」という没年日、「常雲禅定門」という戒名、裏には「狛佐馬進秀綱行之遺像」という墨書が確認できます。

山城の国一揆 ー 自治独立と念仏信仰 ー

 西福寺の建つ「南山城」の「上狛」は、京都室町幕府などの支配下にありつつ、同時に奈良興福寺の荘園領でもありました。豊饒な土地に恵まれながら、さまざまな租税に苦しむのみならず、南北朝から応仁の乱といった過酷な戦乱にも巻き込まれていました。南山城の国人たちは宇治平等院の阿弥陀仏像の前で団結(結縁)し、いわゆる「中央」の諸権力の干渉を排除し、寺社と田畑を共有財産とし、祭祀や用水管理を共同で行い、国のあり方は各村の代表による合議で決するといった史上初の自治独立国を実現したのでした。それは「この世での浄土(理想国家)」が完成した瞬間でもありした。山城国一揆が実現した自治共和国「山城惣国」はほんの束の間(たった八年間)で終わりましたが、その間、民衆の団結心を支え続けたのは阿弥陀仏への信仰に他ならなかったように思います。
 かつて、ドイツでも神聖ローマ皇帝に反旗を翻した領邦君主らの独立運動がありました。これは当時の宗教的権威カトリックへ教会に対する不敬な蛮行でしたが、その際、領邦君主らはルターの新教(プロテスタンティズム)が説く、司祭も教会もいらない「神への直接的信仰」という教義を信じ戦い続けました。秀綱も念仏を称えて直接阿弥陀仏に後世の救いを託し、戦国の世(諸国の独立と覇権争いの時代)を生きたのかもしれません。肖像画の秀綱は左手に念仏のための二連の数珠をかけています。

おわりに

 古来、同じ信仰に与することは社会の紐帯、ひとびとの団結と相互扶助を促す「社会」(部族・共同体)そのものを形成するのにかかせない行為であり、また、その社会というのも単に現世に生きる人だけで構成されるものではなく、彼の土(亡くなった祖先の存在)を含むダイナミックなものでした。こうして形成された社会には特別な思いと倫理性エートスが宿っています。昨今、個人個人が勝手気ままにばらばらで、現世の利益だけを思って生き、一方、地方は人口減で空洞化し、地域社会が崩壊しつつある中にあって、「信仰」というものがもう一度見直されるべきではないか。「自治のひな形」とも称される山城の国一揆はそのことを改めて教えてくれるような気がしてなりません。