03| 十二世紀「不動明王立像」(未公開秘仏) ​

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03| 十二世紀「不動明王立像」(未公開秘仏) ​

 像高50.5cm、頂一顎 9.5cm、面長 5.8cm、面典 7.0cm、面幅 5.5cm、耳張6.8cm、肘張 22.0cm、腹奥 9.5cm、足先開(左足先欠)10.0cm、背板高 36.4cm、背板裾開 12.6cm 木造天地眼の不動明王像。上半身に条帛、下半身に裾を着けて腰部で折り返す。頭部・体部ともに一木割知、割首とする。内刳を施し、背板(後補)をあてる。左方体側に小片が残り、背板に接続する。右方体側は、肩背面の上方を欠失する。両肩・両肘・両手首、別材、付。左右ともに肩から先の材は後補。両前膊より先後補。天衣遊離部後補。腰細後補。持物後補。全体を彩色していたと考えられるが、現状では腹部に青色顔料が残るのみ。光背、台座ともに後補。一木割矧の構造であるが、温和な作風で平安時代後半期(12世紀)の趣を示す。破損が著しい。

不動明王立像 ー都の仏師による洗練されたおもむきー

「[西福寺や西念寺の阿弥陀如来像と]同じく西福寺の不動明王立像(像高五〇・五センチメートル)は一木造の小像で、体を前後に割りぎ、背板を付け、さらに頭と胴を割り離している。相好は髪を巻毛とし、左目を細め、口の右端に上向きの牙、左端に下向きの牙をむきだした十九観による忿怒相ふんぬそうを表すが、腰を右にひねって立つ姿には、都の仏師の作と考えてよい洗練されたおもむきがうかがえる(写96)。
 以上の都風の三像[西念寺阿弥陀如来坐像、西福寺阿弥陀如来立像と不動明王立像]に対して、同じく十二世紀の小像で、この地域の仏師の制作と思われる作品がある。上狛小字西下泉橋寺の菩薩形立像(像高三六・五センチメートル)・蟹満寺の地蔵菩薩立像二体(像高四〇センチメートル・五〇・七センチメートル)、上狛小字東林廻照寺の毘沙門天立像(像高四五・八センチメートル)がそれである。泉橋寺の菩薩形立像は江戸時代に付けた金銅宝冠の頂上に宝塔を頂いているので、弥勒菩薩像であるかもしれない。裳裾に修理の跡があり、当初は裾から両踵をだしていたと思われる(写97)。
 蟹満寺の地蔵菩薩立像二体のうち、像高四〇センチメートルの方は両踵を矧ぎ、体全面の衣文線をすべて省略している(写98)。像高五〇・七センチメートルの方は一木で彫出し、凹線状の簡単な衣文を彫っている(写99)。両像とも右手に錫杖、左手に宝珠をもつ形式である。この両像も維新の時に合併した三寺の仏像であったかもしれない。
 廻照寺の毘沙門天立像は頭と体の全面を一材で彫り、首下から背面に一材を寄せる。腰を少し左にひねるが、ほぼ直立した姿で、右手に宝棒、左手に宝塔を捧げ、邪鬼の上に立つ。持物と邪鬼は後補である(写100)。
 以上のようにこの地域には藤原時代の中央作と地方作とが混在し、さまざまな作風をみせるが、たびたびの戦乱や自然の災害のため、そのほとんどが著しく破損したり、後世の大修理を受けたりしている。神童寺を除くと、等身の木像は蟹満寺の釈迦像ただ一体しか残らず、残っている像と言えばほとんどが一木造の小像であるのは、災害時に避難しにくい大きな像や、災害時に壊れやすい寄木造像が、長い歴史の過程でつぎつぎに亡んでいったことを暗示しているのであろう。」(『山城町史(本文編)』「第二章 原始・古代の展開 第六節 王朝時代の歴史と文化」山城町、1987。p.327〜329)※[ ]内は引用者補足。